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北鎌尾根@槍ヶ岳(北アルプス)2012年8月31日〜9月2日 No.690 とっちゃん、隊長、うさぎ
〜懸案だった北鎌尾根に挑戦する機会を得た〜
【8月31日】 鈴鹿(3:30)〜平湯アカンダナP(8:10)〜上高地(8:36)〜明神(9:36)〜徳沢(10:25)〜横尾(11:40)〜槍沢ロッジ〜ババ平(14:36)〜水俣分岐(15:13)〜水俣乗越(16:40)〜北鎌沢出合(18:46)
【9月1日】 北鎌沢出合(5:06)〜北鎌沢右俣分岐(5:25)〜(8:12)北鎌のコル(8:41)〜P8(9:38)〜P9(2749m)(10:00)〜(10:44)P10独標巻(11:43)P11(11:52)〜P12(12:31)〜P13(2873m)(13:02)〜P14(14:00)〜P15(15:13)〜北鎌平(16:00)〜槍ヶ岳(3180)(17:40)〜槍ヶ岳山荘(18:10)
【9月2日】 槍ヶ岳山荘野営場(6:15)〜殺生ヒュッテ(6:40)〜播ヘ窟(7:05)〜天狗原分岐(8:00)〜水俣乗越分岐(8:40)〜槍沢ロッジ〜(11:20)横尾(12:00)〜徳沢(12:50)〜(13:55)明神(14:10)〜上高地(15:00)

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下山 高所と疲労で少し高山病の症状がでてきたが、少し頭痛がするていどだった。夜中に2度ほど目が覚めたが4時半までぐっすりと寝ることができた。小雨が時折、テントをうっているが、比較的風も穏やかで大きな天気の崩れはなさそうだ。雨に濡れたテントの撤収はいやなものだが、要領よく撤収しパッキングを終えた。

  
槍ヶ岳山荘             殺生ヒュッテ

晴れていればもう一度山頂から鎌尾根を眺めてみようと思ったが、ガスで展望はまったくなし。今日は下山だけなので、もう少し余韻に浸りながら槍を楽しみたかった叶わず。下山のロングルートを思うと気が重たくなるが、歩かないと帰れない。しかし下山なので気は楽だ。

ガスの中、ノーマルルートで下山を開始した。小粒の雨がレインウェアをぽつぽつと敲くものの、少し風が出始め空が明るくなってきている。ガスの切れ間から槍ヶ岳と青空がのぞいたが一瞬で消えてしまった。身体がぬくもり始めたころに、殺生ヒュッテ横を通過し播ヘ窟を見て下山を続けた。相変わらずガスで槍は見えないが、天狗原分岐あたりまで来ると視界が開けてきた。

  
播ヘ窟

沢のほとりで小休止を入れてレイヤリングで体温調節をした。とっちゃんが食料として持参した、梅干し、柿の葉寿司、塩コンブ、こんにゃくゼリーが口に合った。疲れた体は、味の濃いものは受け付けず、酸っぱいものや、塩分といった、単調な味のものを受け入れてくれた。高所での食事は工夫が必要だ。

  
天狗原分岐

  
水俣乗越分岐まで降りてきた           ババ平

水俣乗越、ババ平、槍沢ロッジと順調に通過しやっと横尾に到着。高度が下がり、お昼近くになってきたので、お腹がすいてきた。山荘でラーメンを注文し昼食とした。先ほどの槍沢ロッジは1000円だったが、横尾まで来ると値段が700円に下がった。車での物資運搬が可能だからだろう。スープはシンプルなしょうゆ味で、麺もしっかりとしていて、おいしかった。

  
槍沢ロッジ               横尾


徳沢


河童橋まで帰ってきました

さてここから約11キロの林道歩きが待っている。初日が10時間、二日目は岩稜を13時間、そして三日目がここまでに5時間歩いている。特に二日目のアップダウンの激しい岩稜登攀がかなり足腰にきいていて、疲労は隠せない。早く帰りたいが、ゆっくりとしか歩けない。といっても、ほぼコースタイムで上高地まで帰ることができた。明神で予約しておいたタクシーに待ったなしで乗り込み、平湯アカンダナ駐車場に戻った。

【北鎌尾根について】
1936年1月加藤文太郎が、1949年1月松濤明が壮絶なビバークの末遭難。それぞれの遺稿集、「単独行」と「風雪のビバーク」で知られ、岳人ならばいつかは歩いてみたいと思う、北鎌尾根は日本を代表する伝説の尾根である。

北鎌尾根は加藤文太郎の終焉の地になったが、遭難から捜索の様子は、「新編・単独行者」(山と渓谷社)に詳しい。加藤は昭和11年12月29日、吉田が28日神戸を出発した。二人は乗鞍岳肩の小屋で合流した。31日は平湯槍見温泉で宿泊。1月1日午後1時、槍平小屋午後7時槍の肩小屋に入る。1月2日、槍ヶ岳山頂往復、3日午後、加藤、吉田北鎌へ出発し消息を絶った。
1月11日、捜索隊が北鎌平の北、北鎌第2峰の北側の鞍部に雪を掘った跡。さらに、北鎌の第2峰の北側天上沢側の雪庇の下に鉛筆、甘納豆の缶、チョコレートの紙を発見。槍の穂へ向かった足跡あり、頂上より10m下の岩の下に乱れたアイゼンの跡があり、千丈沢へ墜落した可能性がある。遺体は、4月26日、天上沢と千丈沢の出合から上手8丁の所、岩小屋付近の小雪渓で発見される。

風雪のビバーク 松濤 明
1949年1月
1月4日  フーセツ
天狗のコシカケヨリ トツペウヲコエテ 北カマ平ノノボリカカリデビバーク
カンキキビシイタメ有元は足ヲ二度のトーショーニヤラレル、セツドウーハ小ク、入口ヲカゼニサラワレ 全身ユキデユレル
1月5日 フーセツ
SNOWHOLEヲ出タトタン全身バリバリニコオル、テモアイゼンバンドモ凍ッテアイゼンツケラレズ、ステップカットデヤリマデユカントシモ有千丈側ニスリップ 上リナオスチカラナキ
タメ共ニ千丈へ下ル、カラミデモラッセルムネマデ、15時SHヲホル
1月6日 フーセツ
全身硬ッテ力ナシ、何トカ湯俣迄ト思フモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス
オカアサン
アナタノヤサシサニ タダカンシャ、一アシ先ニオトウサンノ所ヘ行キマス。
何ノコーヨウウモ出来ズ死ヌツミヲオユルシ下サイ、
ツヨク生キテ下サイ
井上サンナドニイロイロ相談シテ

井上サン
イロイロアリガトウゴザイマシタ カゾクノコトアタオネガヒ、
手ノユビトーショーデ思ウコトノ千分の一モカケズ モーシワケナシ、
ハハ、トートヲタノミマス

有元と死ヲケッシタノガ 6:00
今14:00 仲々死ネナイ
漸ク腰迄硬直ガキタ
全シンフルヘ、有元モHERZ、ソロソロクルシ、ヒグレト共に凡テオハラシ、
ユタカ、ヤスシ、タカヲヨ スマヌ、ユルセ、ツヨクコーヨウタノム、

サイゴマデ、タタカウモイノチ、友ノ辺ニ スツルモイチ、共ニユク(松ナミ)

父上、母上、私ハ不幸でした、おゆるしください
治泰兄、共栄君 私の分まで 幸福にお過ごし下さい
実態調査室諸士、私のわがままを今までおゆるしくださいましてありがとうございました。
井上さんお世話になりました
荒川さん シュラフお返しできず すみません 有元
我々ガ死ンデ 死ガイは水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル
個人ハカリノ姿 グルグルマワル

竹越サン 御友情ヲカンシャ、
井上君、アリガトウ(松濤)

有元
井上サンヨリ 2000エンカリ ポケットニアリ、
松濤 西糸ヤニ米代借リ、3升分、

二人の遺体は夏、千丈沢の四の沢出合で発見され、手帳に遺書が書かれていた。この手帳は現在、大町登山博物館に所蔵されているようだ。

【参考文献】
日本登山体系 槍ヶ岳・穂高岳(白水社)
チャレンジ!アルパインクライミング 北アルプス編
単独行 加藤文太郎
風雪のビバーク 松濤 明


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